放蕩記

科学ライター 荒舩良孝の日記

写真

曼珠沙華を見にいった

今年は季節の移り変わりがいつもより早い。
花もいつもより早く咲く。
この季節の代表的な花の曼珠沙華もそうだ。
曼珠沙華は彼岸花というくらいなので、お彼岸の時期に咲く花だが、今年はお彼岸の時期には最盛期を過ぎていた。
連休を中心に、世の中の多くの人がこの花を見にいっただろう。
僕もご多分に漏れず、埼玉県の巾着田に行き、曼珠沙華の群生を見てきた。
残念ながら、ピークは過ぎていたが、曼珠沙華の群生は独特の迫力があった。
これがピークだったらもっとすごかったはずだ。

写真も撮ったのだが、曼珠沙華の撮影は難しい。
花はどれも難しいかもしれないけれどね。

ということで、厳選の(?)2カットだけ公開します。


曼珠沙華といいながら、クモが主役。




撮影も腕を磨いていかないと、という今日この頃です。



 

EOS R体験報告

今日は、品川にある某大手カメラメーカーのイベントに行ってきた。
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ここはそのメーカーのショールーム。
今、目下の話題は、新しく発表されたミラーレス一眼。

そう、このショールームの上の階で、キヤノンのEOS Rの体験会が実施されているのだ。
僕が会場に着いたときでも、EOS Rの実機撮影体験には50分待ちの行列ができていた。

このイベントには、その他にも、キヤノンのフォトサークル会員に向けて、EOS Rスペシャルセミナー&体験会が企画されていて、僕はこの日の回に当選し、参加することができた。

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このスペシャルセミナー&体験会は、写真家の方のセミナーと体験会がセットになったものだ。
セミナーは、写真家の方がEOS Rで撮影した写真を見せながら、EOS Rの操作性や優位点などの説明を一通りおこなった後、撮影時の設定の仕方などについて話をするもの。

そして、続く体験会では、参加者1人1人にEOS Rが貸し出され、1時間ほど好きに撮影してきていいという、ものすごく太っ腹な企画だ。


スペシャルセミナー&体験会は東京では15〜17日の3日間で5回開催され、各回の定員は15人。
かなりの数の申し込みがあったそうで、今日、参加した人(つまり、当選した人)は、とてもラッキーだという話だった。

確かにそうだろう。
発売前の新機種を写真家でもない一般のユーザーに貸して、好きに撮影していいという試みはキヤノンの中でも初めてのことだという。

で、これが僕が借りたEOS R
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レンズはRF 24-105 F4L IS USM

手で持ったときは、確かにカメラ本体は軽いが、レンズが重いなという印象だったが、首に下げているうちにあまり気にならなくなった。

EOS RとRF 24-105 F4Lの組み合わせは5D IVとEF  24-105 F4Lの組み合わせよりも350g軽いそうだ。
僕は、ふだん、5D IIIとEF  24-105 F4Lの組み合わせで写真を撮ることが多い。
5D IIIを持っているよりも、EOS Rの方が楽だった気もする。
家に帰ってから、改めて5D IIIを持ってみると、EOS Rの本体はかなり軽いと思った。

今日、僕が主に使った撮影モードはRで初めて搭載されたFvモード。
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これはどういうことかというと、P(プログラム)、Av(絞り優先)、Tv(シャッター速度優先)、M(マニュアル)のそれぞれのモードを好きに選べるというもの。

これまでの一眼レフカメラの撮影では、先に撮影するモード決めてから撮影する。
例えば、Avで撮影していたけれど、MやTvにしたいときには、モードを変更してから、シャッター速度などを変えて撮影していた。

でも、Fvは、モードを変えなくても、絞り、シャッター速度、ISOを自由に変更できるというもの。
すべてをオートにすればPモードと同じだし、絞りとISOの数値を固定すればAv、シャッター速度(とISO)を決めればTv、すべての数値を設定すればMと同じになるので、いちいちモードダイヤルを回さなくても、モード変更したように使えるというモードだ。

RFレンズはレンズの中にチップが入っていて、レンズ自身がデジタルレンズオプティマイザーの情報を持っていて、カメラ内で処理をする。
つまり、レンズもコンピュータ化しているということだ。
それから、EOS RはRFレンズの先のリングや、いろいろなボタンに、自分の好きな役割を振り分けることができる。 
つまり、自分の使いやすいようにカスタマイズできる。
これは、使っていく中でどんどん設定を変えてくださいという意味であると同時に、同じ機種だからといって、人のカメラを気軽に使えないということでもある。
レンタルなどの一時的な使用よりも、常に使ってカスタマイズすることでより効果を発揮するカメラだと思う。

僕は1時間ほどしか使っていないので、正直、慣れない部分もあった。
もし買ったとしたら、実際に使いながら慣れていったり、カスタマイズして使いやすくするしかないのだろう。

そして、今日、撮影した写真はこんな感じ。
EOS RのRAWデータはこれまでのRAWデータと形式が違うようで、まだDPP4でも扱えないそうだ。
ということで、JPEGで撮影したデータを数枚掲載する。
調整はしていない撮って出しだ。
正直言って、もっと撮影したかった。
ブログに掲載すると画像が小さくなってしまうので、ディテールがあまりよくわからないかもしれない。
あくまでも参考までに。

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高輪プリンスで、結婚披露宴がおこなわれたようで、新郎新婦がやってくるのを待ち構えている人たち。
きれいに整列しているのがおもしろかった。

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高輪プリンスの庭にて。

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アンスリウムかな?
アンダー目で撮った。

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公園で遊んでいた子どもたち。
ちょっと空中の隠れ家っぽく見えたので。

 

kotoba 33号を頂いた

集英社の季刊誌kotoba 33号が送られてきた。
僕は、時々、kotobaに記事を書くことがあるので、その関係でありがたいことに送って頂いている。

この雑誌は、毎回、1つのテーマを深掘りするタイプのもので、1つ1つ違う雑誌かと思うくらい、バラエティの富んだものになる。
今回の特集テーマは「アブナイ、あぶない、危ない写真」。

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ビートたけしの表紙写真が印象的だ。
この写真は、湿板写真で撮影されたもの。
フィルムカメラよりも前に登場して、幕末の偉人たちを撮影したのと同じ技法だ。
デジタル写真にはない風合いと存在感のある写真だ。

今回の特集は、篠山紀信、藤原新也、マーク・ピーターセンなど、歴史をつくっていきた写真家たちも取り上げられていて、執筆陣も豪華なので、写真とは何かというのを考えるいいきっかけになるのではないかなと思う。

ということで、これを読んで勉強しようと思います。




長瀞の船玉まつり

昨日の夜は、長瀞まで繰り出し、船玉まつりを観てきた。

このお祭りは、長瀞の川下りの船頭が水上の安全を祈願して水神様をお祀りしたのが始まりということのようだ。
たくさんの提灯を万灯船の運航と花火大会が目玉となっている。 
だが、今年は荒川が増水しているために、万灯船の運航は中止となり、特別観覧席の近くの岸辺にたたずむだけになってしまったようだ。

多くの人は、日が暮れてからの花火を目当てにくるので、夕方に会場の岩田畳まで行ってみると、既にたくさんの人たちがスタンバイしていた。

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早い人は、朝から場所を取っているようなので、頭が下がる。
僕は、通路の指定がされている場所の少し脇で、1人分だけ座れる場所を見つけて、そこに陣取った。

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だんだんと、日が傾いてきて、万灯船に灯りがつき、灯籠も流れてきた。

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このおまつりの花火は3000発で、スターマインや尺玉が打ち上がる。
打ち上げ場所は対岸の山からなのだけど、かなり近いので迫力がある。FullSizeRender


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今回、場所が近すぎた感があり、船玉まつりの雰囲気と花火を1つの画面に入れられなかった。
そこは反省点として、次回につなげていきたい(ということは、来年も行くのか?)。


 

平成最後の終戦の日

お盆だからというわけではないが、両親の家(実家)に顔を出してきた。

すると、父親が「最近、出てきた」といいながら、一枚の写真を見せてくれた。

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この写真は昭和17年(1942年)の夏に撮影されたものらしい。
後列の真ん中で、軍服を着て立っているのが、僕の祖父だという。
で、前列の真ん中で帽子をかぶって立っているのが父親だ(写真が気づいていて、顔がよく見えなくなっているが)。
その周りには、僕が一歳の時に亡くなった祖母や、会ったことのない親類が写っているようだ。

最初は、ネガが見つかったという話だったが、ネガ自体は傷月居ている様子がなかったので、古い紙焼きが見つかって、写真屋さんで、ネガを起こし、プリントし直したのだろう。

ちなみに、僕が見せてもらったのは、プリントし直した写真だ。

祖父が戦地に向かうタイミングで親類が集まって撮影したということ。

祖父が戦争に行ったことは、生きているときに直接聞いていたから知っていたけど、同時の写真を見たのは初めてだ。
1942年の夏に戦争に行き、家に帰ってきたのは1941年だったという。
中国やインドネシアあたりにいたらしいが、4年も戦地にいたんだと改めて知った。

4年も。
長いな。
生きている間も、戦争のことはあまり語らなかったけれど、どんな気持ちで戦地にいたのかな。
正直言って、僕には計り知れない。

この写真は、祖父が戦地にもっていったものだったのだろうか。
それとも、祖母が家でもっていたのかな。

今の時代に住んでいると、戦争とは遠いもののように感じてしまうけど、僕の祖父も実際に戦っていたのだと、はっとする。

父は終戦の年に、小学1年生で、玉音放送も聞いたようだけど、あまりよく覚えていないようだった。
話を聞いていると、その後に来た進駐軍の方が印象に強かったようだ。

この地球上では、まだ、戦闘は終わっていない。
暴力ではなく、違う形で戦争をする人もいるだろう。
世界中の人たちが、平和だなと思う日は来るのだろうか。
ちっぽけな自分が平和に貢献することなんてできるのかな。
平成最後の終戦の日に、こんなことを思った。